文才

文才とは文字通り「作文の才能」のことを指す。

そして一般的に、才能とは先天的なものが前提にあると考える。しかし文才においては、誰でも後天的に獲得し得る、いや、後天的に獲得し得るかもしれない才能だと考える。

野球の才能は、小さな頃から野球部に入り指導されることで花開く。

フィギュアスケートの才能も同様だが、家庭の経済状況に強く依存する。

つまり、意識的かつ限定的に獲得するものである。だが、文才においては違う。

文才は無意識的に得るものであって、環境に大きく左右される。

文才を付けるために多読をする人がいるが、至極無駄ではないだろうか。鍛える為に読書をすれば、結局それはトレースになってしまい、本当の意味での文才は得られない。

写し絵だけ上手いやつがいたとして、そいつのことを「絵が上手い」と評する人はいないだろう。あくまで「写すのが上手い」のだ。

それに、本当に面白い文章は勉強する気で読んでいても、気づいたら普通に読んでしまっている。学べている時点で駄文であることは自明。

 

僕がこのブログを始めた理由は、インプットに対するアウトプットのバランスを取るためだった。

日々ありとあらゆるエンタメを摂取していたが、その吐き出しどころが見つからなかった。そこでブログを始めた。

元々文章を書くことは嫌いではなかったので、僕には丁度良かった。

僕の文章は、今までインプットしてきたものの影響を十二分に受けている。詳しい人であれば当てられてしまうかもしれない。浦沢直樹氏が『漫勉』にて当てていたように。

文才というのはなにも文章だけから得るわけではないのだろう。日々生活していく中で、五感全てで感じる情報の結晶が『文才』なのではなかろうか。

 

文才を育むには、入ってくる情報の取捨選択が必要なのだ。

したがって、文才を得たい者は早急にこのブログを閉じることをおすすめする。